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三井物産の歩み : 創業‐戦中期

明治9年、「旧三井物産」誕生

旧三井物産創業者・益田孝

明治維新後、日本の前途には多くの困難が待ち構えていた。政府は富国強兵・文明開化政策を推進する方策を模索するが、いまだ世界貿易は先進国の商社に握られていた。明治9年7月1日、旧三井物産が誕生。職員わずか16人、創立時より「広く皇国物産の有余を海外エ輸出シ内地需要ノ物貨ヲ輸入普ク宇内万邦ト交通セン事ヲ欲シ」と設立の意義を世界に求めた。創業期の旧三井物産にとって、まずコメの取引が最も重要なビジネスのひとつとなる。旧三井物産は当時の国民経済にとって最大の生産物だったコメの国内の流通の整備を推進、さらに日本のコメを日本の船でヨーロッパに初めて輸出することに成功した。


コミッション・エージェンシーからオルガナイザーへ

旧三井本館

明治の開国以来、日本人の目標は「欧米に追いつけ、追い越せ」であった。産業分野では1日も早い手工業から近代工業への脱皮、生業から企業への発展を果たす必要があった。そんな中で近代工業第一号であった綿糸紡績業を支えたのが旧三井物産。イギリスから最新鋭の紡績機械を輸入、中国、インド、米国からは綿花を輸入し、日本綿紡躍進の陰の立役者となった。大正時代に入ると不況が続くものの大正3年(1914)年、第一次世界大戦の勃発により、「大戦景気」が到来。しかし、大戦終了後ふたたび経済界は混乱、不況に陥る。
大正初年まで旧三井物産は支店の外国間取引など積極的な拡大作戦を展開。大戦後の不況が回復すると企業の新製品・新事業計画の開発と援助、地方産業の組織化と助成など、旧三井物産は商社のオルガナイザー機能を発揮するようになる。


敗戦からの復活、そして解散

プラット紡績機械

1930年、世界恐慌の大波が日本にも波及、翌年の柳条溝事件以後、日本の国際信用は失墜する。やがて日本は日中戦争、1941年の日米開戦へと突き進んでいく。1938年ごろ旧三井物産の営業活動は輸出振興と重工業育成の2つに重点が絞られる。また軍の命令により利益を度外視した外地事業を拡大せざるを得なかった。そして1945年敗戦。日本列島と外地をつなぐ交通、物資の交易は完全に途絶える。敗戦は旧三井物産にも多大な損害をもたらす。在外子会社は接収され、取引額も激減。しかし、戦後3期目には不死鳥のごとく黒字化を達成。その喜びもつかの間、1947年占領軍による旧三井物産への解散命令が下され、旧三井物産は崩壊する。しかし、離散と生活難の中でプライドを捨てた者は誰一人いなかった。



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